人間生きていれば時に路頭に迷うことがあります。というより迷わない人などいません。生きていれば様々な選択の場面があり、仕事でも学業でも誰だって悩みますし、仕事をしないで自宅でゴロゴロしていても、このままではマズイと悩みます。仕事が辛い、失恋した、失業した、病気になった…。むしろ悩みが無いということであれば、それは懸命に生きているのか?ということにもなるのかもしれません。
生きている意味が分からない…。生きる意味を見失った…。そもそも「生きている意味が分からない」と考える意味は何なのか?
また今まではしっかり意味を理解していたということであれば、それはどういう意味を持って生きてきたのか?人間誰しも自分の原点があります。志や目標、純粋な心で何かを目指し、こうしたい、ああなりたいと願った日々があったはずです。
その原点というものは人生に迷った時の拠り所であり、原点回帰という言葉があるように本当の自分に立ち返れる場所です。
人生に意味などない
人生の答えなど簡単に見つけることはできません。ある意味探すこと自体が愚かな行為かもしれません。
なぜか?どんなに優れた人間であろうと、どんなに磨かれた人間であろうと未来は分からないから。「人生万事塞翁が馬」という言葉があるように今の状況が吉なのか凶なのか?何事も順調に物事が進んでいても、実はそれは不幸に突き進んでいるかもわからない、逆に辛い状況だけれども先々の豊かな状況を作り出す為の素晴らしい試練の時かもしれない。また未来に起こる大難を小難にする為の必要な時間かもしれません。
自分の思い込み
生きている意味がないというのは、あくまでご自身が結論づけただけに過ぎません。
つまり「生きている意味がないという意味にしている」ということです。
意味は必ず存在する、しかし「ない」とするか「ある」とするか?あるとしたのであればどういう意味にしたのか?それだけのことです。もちろん正常な判断ができないまでに人生に打ちのめされることはあります。そういう時にはどういう姿勢が大切かというと心を覗かないことです。覗く意味は答えを見つける為ではあるでしょうが、良くない解釈をしそうなのであれば心を覗かないことです。
悪い方向に進まそうとする自分の心を覗いても何ら良い結果を生みません。良く停滞したり迷いが生じる方の特徴は過度に心を覗いて自分の状況を確認したがる方です。入社三ヶ月で仕事が面白い、面白くない、やりがいがある、ないと自らの状況に対して白黒をハッキリつけようとします。
何でも白か黒かつけていれば何かを完成させることなどできるはずはなく、一般的にまだ答えを出すには時期尚早であるという場合も、よく見受けられます。
大局的な意味
生活をしていく中でムカッとくる瞬間や自分を見失う瞬間というのは誰しもあることでしょう。また親に叱られたり、上司に叱られたり、目的を達成する為に遠回りをしているなと感じることもあるでしょう。何が善で何が悪か?なぜ人は苦しむかというと自分は自分の立ち位置からしか物事を見れないからです。
「大局」という言葉がありますが、これは物事の全体や高い見地という意味で、大局観というのは全体から特定の事象を判断すること、また高みからその事を判断することです。仕事で例えると新入社員はやはりまだ入社したてで会社の全体像も分からない、業務の全般も把握できない。しかし上司にも新入社員時代があり様々な道を通ってきたのだから業務内容であったり、その時の苦悩や考えることもそれなりに把握できているということです。
だから、ある程度大局的な見地から部下にアドバイスをするわけです。また50代の方は50年生きてこられた経験があるから20代や30代にどうすべきであったか?どういう姿勢で生きてるべきであったか分かるわけです。
もちろん単に時間だけ過ぎれば立派なものが身につくわけではありません。むしろ余計なものが身についてしまっているケースもあるでしょう。
ただ大局的な見方、つまり大局観を養うことで自らに誤ったメッセージを投げることが減るのです。
我力の限界
何事も自らの意思や信念で突き破ることも重要です。それが強さを養い、ストレス耐性や実現力が強化されていきます。無論それができる方であればそれでいい。しかしそれができない方は、我力のみで突破しようという考えは転換をされた方がいい。
もっと言えば我力の過信は誤りに気付きにくい場合が多いです。
今まで病気をしたことがないからこれからも病気はしないというわけはありません。過去は恋愛の失敗続きだったから未来も必ず失敗するわけではなく、過去の恋愛は上手くいったから次も必ず上手くいくわけでもありません。ある程度経験によって学んできた部分はあっても、一回一回が独立したものです。
物事は常に変化しているわけですから過去と未来を結びつけるとあまり良い結果は生まれません。先入観というものは自分を守る為に必要な先入観もあれば、成長や革新を阻む先入観があるということです。こういうところから我力のみでなく他者の力を借りた方が物事は早く進む場合が多いです。
結局はこのバランスであると思います。どちらにするかという二択ではなくどちらも必要であり他者を頼りにし過ぎると他力本願、責任転嫁、自己の成長が止まる場合もあります。
意味や解釈が変わる
生きている意味が分からないと思うまでに追い込まれている時は他力が必要です。なぜ生きている意味が分からないという状態になったかはケースバイケースで深刻度も異なるので、ここであらゆるケースに応じたことは申し上げられませんが、世の中には様々な救済機関や相談窓口があります。
我力を出すところを誤れば、ますます袋小路に入りかねません。人生は頑張る時もあれば休むことがあっていいものです。また休むということを単に停滞、後退と解釈をしてはいけません。先が見えないということで不安になることはあります。しかし人生全般の重荷をこの瞬間に背負い込む必要はなく、今日一日を考えることです。また先が見えないから見なくていいのです。本当に10年後の自分が今想像しても意味があることなのか?
人生は到底人智の及ぶものではありません。20代の意味は30代になってから分かってくるものであり、40代、50代になりご自身がさらに成長を遂げれば、20代の意味はまた違ったものになるのです。
自らが成長し立ち位置が変われば意味や解釈が変わることを心に留めておいてください。
人生の意味を見失う時
物事が上手く進まないような状況に追い込まれた時や、どんどん状況が悪化していく時には自分に自信を失い、社会での自分の必要性がないとまで思い込んでしまいます。やはり社会とのつながりは非常に重要で、それは単に仕事をするしないということではありません。ボランティアに行ったり、地域コミュニティに参加したり。
自分の人生が追い込まれた時にこういったものに参加するのは難しい点があるでしょう。しかしこういう自分を必要としてくれるところに出向き人と交流することは、自らの存在意義を取り戻す為にはすごく有益な活動です。
定年を迎えた男性が社会とのつながりがなくなり虚無感に襲われることもあると言いますが、やはり社会とのつながりがなくなることで大切なものを見失うところから来ているのではないでしょうか。人は物事が上手く進んでいる時は、あまり他者の有り難みや必要性を感じないかもしれませんが、窮地に追い込まれた時や苦しい時は他者の言葉に有り難いと思うはずです。
そして苦しい時に他者の必要性を実感することで、人への優しさを知り自らも人の役に立とうと思え人生が良い循環に入っていくのかもしれません。
追記:必要な存在
ご自身で生きる意味、価値を見出せない場合は下記コラム「必要とされたい心理を満たす≪社会の役に立つ仕事とは?≫」をご覧いただければと思います。下記ページで述べていますが、私は誰しも誰かの役に立てる、誰しも価値がある。しかしその価値に気づいていないだけという考え方を持っています。
価値は誰かと出会うことで変わります。価値は誰かと接することで変わるのです。自分は絶対的にこうに違いないという頭は少し片隅に置いて下さい。そしてこの事の意味は下記で述べています。きっと自分自身の見方、考え方がガラリと変わることでしょう。
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必要とされたい心理を満たす≪社会の役に立つ仕事とは?≫
自分は本当に生きてる価値があるのか?生き続ける意味など存在するのか?そういう疑問を持った際はこちらのページに書かれている事を実践していただければ幸いです。見方が変われば人生って変わることを知らなければなりません…
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